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文久2年閏8月15日(1862.10.8)
【江】幕府、参勤交代制度の改革を達す
【江】後見職一橋慶喜・大目付岡部長常、
進献物廃止に関する老中の抵抗に憤慨して登城中止

■幕政改革(参勤交代)
【江】文久2年閏8月15日、幕府は諸大名に参勤交代の緩和を達しました。

将軍家茂は登城の諸大名を前にして、近く参勤交代制度の緩和を行うことを言い渡し、同時に武備充実を命じました。

関連:■テーマ別文久2「幕政改革問題」「開国開城」文久2年5月〜:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

ところで、この日、将軍後見職一橋慶喜は登城しませんでした。↓

■幕政改革(進献物廃止)
【江】文久2年閏8月15日、後見職一橋慶喜・大目付岡部長常は、進献物の廃止をめぐる老中らの態度に憤慨して登城中止(出勤中止)をしました。

慶喜は、この朝、老中板倉勝静に対して、現在の改革に関する議論は到底実行されないだろうとの書簡を遣わし、登城を断りました。

慶喜は改革論議で難題があると老中がいつも「橋越ニ公の英断にあるべし」と責任を回避することに不満を抱いていたようです。そうしたところ、前日、諸大名からの進献物(付け届けですネ)廃止の議論において、老中・若年寄は年三季(端午・重陽・歳暮)の進献は残すべきだと主張し、全廃に異議を唱えるということがありました。実は、当時、諸大名が幕府に進献をする時は、老中・若年寄にも贈遣をする慣例で、その金額は一年に老中で2000両、若年寄で1000両にもなったといいます。進献が廃止されると、贈遣による所得(役得ですネ)もなくなります。老中・若年寄の異議の裏には贈遣があるとみなす慶喜は、彼らの私心に不満やるかたなく、ついに登城拒否に出たのでした。

驚いた将軍は板倉・水野両老中を一橋邸に派遣して登城を促しました。

なお、大目付の岡部長常も、慶喜同様、進献物廃止の議論が進まないことに抗議して登城を停止しました。

<ヒロ>
さきに改革断行を求めて登城停止をしていた(こちら)総裁職の松平春嶽は、幕閣(老中板倉勝静)が改革に本腰をいれる決意を示したので、閏8月4日に登城を再開したばかりでしたが(こちら)、今度は後見職の一橋慶喜が登城停止という事態に^^;。

保守派が既得権を守るために改革に抵抗するという姿は、いつの時代も変わらないものですネ。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2004.10.8)

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